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62 カチョーの日々

発見の日々

 カチョーの日々とは、発見を連続させる日々である。内にあっては営業社員に好調の起因を発見し、あるいはベテラン社員に慢心低調の兆しを発見する。全社の動きと我がチームの密接乖離の度合いを発見する。外に向かっては、顧客の事情の変更やマーケットの変化の兆候を発見する。

発明の日々

 カチョーの日々とは、発明に腐心する日々である。慢心低調の兆しを見せるブカに対して、「君は最近慢心低調ですな」と直言するのは乱暴である。かと言って、「大事なのは初心忘るべからずだよ」というのも響かないだろう。響かせるには、それなりの発明が必要なのである。

花鏡

 ちなみに「初心忘るべからず」を発明したのは、世阿弥である。彼は芸能技術の口伝に熱心で、若い頃に著した『風姿花伝』が有名だが、晩年に書き上げた『花鏡(かきょう)』が充実している。この中に、「是非初心忘るべからず」、「時々の初心忘るべからず」、「老後の初心忘るべからず」の三ヶ条が出てくる。概要すれば、能では初心から老後まで習い通すものであり、それぞれの年代にふさわしい芸を身につけなければならない。年代のふさわしさもまた初心という。そのように抜かりなく稽古をしていないと、初心に返ってしまう。初心に返るとは、芸が低下するということだ――。「初心忘るべからず」を、このように『花鏡』までたどれば、響く表現のヒントを得られるかも知れない。『花鏡』の入手が難しければ、白洲正子の『世阿弥』(講談社文芸文庫)で、原文の一部に触れられる。

怠惰表現

 世阿弥が発明した「初心忘るべからず」も、長く人口に膾炙(かいしゃ)すれば、月並み表現になる。月並みとは伝導率が低下した表現のことで、これを遣うことは、カチョーの大罪の一つである。また、泣く子に「泣くな」、サボる子に「サボるな」、勉強せぬ子に「勉強しろ」というのもダメ。自分の気持ちの処理を第一にしているから、子どもの気持ちを動かすことも、態度を変えさせることもできない。何の工夫もない怠惰表現なのだ。

勤勉表現

 ということで、表現には発明が必要なのである。発明の目的はただ一つ、「ブカを動かす」ことだ。そのために遣う言葉を厳選する、響く喩えを仕入れる、言葉を節約する、事例を用意する、タイミングをはかる、ブカの立つ瀬を確保する、状況を整える、改めてブカへの思いを深める。こうした配慮と準備を内蔵したデザインが、発明なのである。これがカチョーに求められる勤勉表現である。

決める日々

 カチョーの日々とは、決める日々である。朝会社に着いてみると、ブカはもう書類に取り組んでいる。外回りに出ようとするブカがいる。それはそれで構わない。カチョーである貴兄姉が決めたことを、ブカがやっているのであれば。しかし世の多くのブカは、カチョーがやると決めたことを、やっていない。そもそも、ブカに何をやらせるかを、決めていないのだ。そうなると、ブカの動きも、チームの在りようも、成り行きになる。マネジメントに成り行きを取り込むことはできるが、成り行きをマネジメントすることはできない。カチョーは、「自らが決めるべきことは何かを決める」ことから、毎朝をスタートさせなければならない。

決めるなんて怖くない

 決めるとは、もう一方または他のたくさんを、捨てることである。そして、その結果に、責任を持つことである。だから、捨てることや、責任を持つことが怖くなって、決められなくなるカチョーがいる。しかし、本当は怖がる必要なんてないのだ。決めたことがいつも間違ってばかりのワタシなら、そんなワタシをカチョーにしようと決めた、誰かの責任なのだから。

お祭りの日々

 カチョーの日々とは、お祭りの日々である。夏の祭りは、収穫の無事を祈るが、秋の祭りは、収穫を祝う。農業は、まさしく地を這うような苦労が連続するシゴトだから、一年をかけた紆余曲折の収穫時には、お祭りでパァーっとけじめをつけるのが習いだ。これに対して、会社のシゴトは、放っておくといつがけじめかわからなくなる。期首や期末ばかりが区切りではないからだ。したがって、カチョーは区切りにすべき頃合いを見誤らず、ここが区切りとみたら、すかさずお祭りをすべきである。職場によっては、お祭りが毎日必要なこともあろう。飲む、祝う、顕賞する、拍手するなどいろいろあるが、お祭りだから畏まらず、大騒ぎすることが肝要である。

無常の日々

 カチョーの日々とは、無常の日々である。今日のブカを、昨日のブカと思ってはならない。明日の顧客を、今日の顧客と決めつけてはならない。ブカも顧客も、社会も連れ合いも、一つの姿に止まるものではない。常というものがあるとすれば、それは常が無い状態のことである。無常にもいろいろあって、段々と姿を変えるもの、突然現れるもの、突然消えるもの、道をたどって進むもの、ぴょんぴょん跳ねて進むもの、そのありさまは様々である。だから、昨日の続きでブカを育てることも大事だが、あるときはポーンと高飛びさせることも必要だ。手塩で育てたブカを配転で失っても、それを無常であり、当たり前であると自若していたい。ブカにもブチョーにも恵まれず、シゴトのフィールドにも恵まれない、と悲観することはない。幸運が長続きしないように、留まる不幸もまたないのである。そんなわけで、カチョーが日々手を取り合っていなければならない相手は、無常だったのである。

無常との連絡

 無常は釈尊の発見だから、無常により近づきたければ仏典に触れるのがよいだろう。『徒然草』の第五十九段でもよい。「無常の来る事は、水火の攻むるよりも速やかに、逃れ難きものを」とある。解りにくければ橋本治の『絵本徒然草』に懇切丁寧の解説がある。小林秀雄の『無常といふこと』も面白い。小林が蕎麦を食いながら思ったことを、2400字足らずにまとめたものだ。その他、無常を書いたもの、詠ったものは無数にある。なぜかと言えば、無常という当たり前な状態に、人はなかなか慣れないからだ。そこで繰り返すのだが、カチョーを全うするには無常と手をつなぐことこそ、だと申し上げて、お仕舞いにしたい。