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更衣(ころもがえ)

 明治6年に新暦が施行されて、6月1日から9月30日が夏服、10月1日から翌年の5月31日が冬服となったという。だから夏服を着るのはは4ヶ月間、冬服は8ヶ月間ということになる。へえ、そうだったんだ。

 ぼくたちの時代は中学生も高校生も制服だったから、6月になると上着を脱いで半袖シャツで登校した。ちょっと頼りないような晴れ晴れしたような。女子はカーディガンを着たりもしていた。そして10月からまた上着を着ることになる。

 会社員の父は合服というのも持っていた。春先から初夏、秋口の穏やかな季節、寒暑の合間に着るのを合服とか合いとか言っていた。ぼくも会社勤めのころは、しばらくはそんな感じでスーツをそろえていた。

 衣替えは更衣とも書く。平安時代の宮中では、旧暦4月1日に冬装束から夏装束に、旧暦10月1日に夏装束から冬装束に衣装を替えると定まっていたらしい。で、天皇の更衣(ころもがえ)を務める女官を更衣(こうい)と呼んだ。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

 『源氏物語』の冒頭に出てくる更衣は、桐壺更衣(きりつぼのこうい)のことで、桐壺帝の寵愛を一身に集め女性だった。更衣は天皇の着替えをする役職名でもあり、女御(にょうご)より身分が低かった。

はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。

 身分がそれほど高くない更衣が帝の寵愛を受けているのだった。われこそはと思い上がっていた女御たちは、桐壺更衣を目障りな女だと、さげすみながらねたんだ。下位の更衣たちは、なおのこと心やすからでなかった。そのため桐壺更衣は病気がちになり、桐壺帝はいっそう 更衣をあわれに思われ、世間の語り草になるほどの寵愛ぶりであった、というのである。

 帝に寵愛され早い死を迎えたこの更衣こそが、光源氏の母である。幼少に母を亡くした光源氏は、女性遍歴で母の幻影を追うことになる。とまあ、話が逸れてしまったのだが、衣替えはこのころには制度化されて、それが明治時代まで続いた。新憲法になってからも、学校や会社はこの制度に倣っていた。

 だが、よく言われることだが、江戸時代の制度はそれ以降に比べると、もう少し気が利いていて、幕府はつぎのように定めたという(日時は旧暦)。

4月1日から袷(裏地付きの着物)
5月5日から単衣、帷子(かたびら=麻で仕立てられたもの)
9月1日から袷
9月9日から綿入り

 単衣(ひとえ)に裏地をつけて袷(あわせ)にし、もっと寒くなると袷に綿を入れて綿入りという冬服にした。反物で作った着物は、単衣をベースにして、裏地や綿を加減しながら春夏秋冬をしのぐ工夫があった。裾を上げて子供服に、また糸を解いて成人服にすることも自在だった。

今年も更衣の季節がやって来た。
茶の間の陽だまりに腰を据えて、珠世は着物の山と孤軍奮闘している。
綿入れの綿を抜き、袷衣(あわせごろも)に縫い直すのは手間がかかる。が、反物などめったに買えない下級武士の家では、女たちの腕のふるいどころでもあった。(『お鳥見女房 狐狸の恋』諸田玲子の第八話「菖蒲刀」)

 綿入りの着物から綿抜きしているので、これは旧暦3月中下旬の話だろう。いまなら4月下旬から5月上旬あたり。諸田さんのお鳥見女房シリーズには、綿入れ、綿抜きの場面がよく出てくる。生活の年中行事の中にある、女たちのやり繰りの繁忙と温みが伝わってくる。

 お鳥見女房を読んでしばらくしてから、ぼくは自分で自分の衣替えをするようになった。生活というものの手がかりが、衣替えにあると感じたからかも知れない。

2021/6/10 NozomN

   

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