草稿ノート草稿ノート

勘九郎の鰯売り/阿漕ヶ浦

梅

 「鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)」を見た。喜劇というのか笑劇というのか。吉本新喜劇のような他愛ないストーリーなのだ。もちろん演じているのはお笑い芸人ではなく歌舞伎役者である。鰯売りの猿源氏を中村勘九郎が、傾城で実ハお姫様の蛍火を中村七之助が、相勤める。

 猿源氏というのは光源氏のパロディを思わせる。猿源氏は女性にはまったくモテそうにない男だが、最後にはお姫様に惚れられてしまう。光源氏をひっくり返して、あとでもう一度逆さにしたような、ひねりの利かせ方だ。

 鰯を売って歩く猿源氏が五条橋で出会った蛍火に恋し、大名になりすまして揚屋に来るという話になるが、そこから吉本みたいなドタバタが始まる。で、見ていられないかというと、そうでもない。いろいろな仕掛けが埋め込まれていて、最後には拍手大喝采ということになる。

 昔は、この作品が一七世中村勘三郎の魅力を引き出すために書かれたことも、大喝采の理由だったろう。喜劇なのに可笑しさに頼らず、笑劇なのに俗に流れない品格を保てたのは、一七世勘三郎があってこそ。品格はあるが、笑いはやはり溢れてくるのである。

 この演目の初演は一九五四年。以来六六年間、一五回の舞台があった。その間、猿源氏も蛍火も三人が演じただけである。松竹の上演記録を見ると、猿源氏を一七世勘三郎が五回、一八世勘三郎が七回(うち五回は五世勘九郎として)、現在の勘九郎が三回となっている。蛍火は中村歌右衛門が五回、坂東玉三郎が七回、中村七之助が三回で、つまり組合せは定まっていた。

 一八世勘三郎はボクより七歳若く、玉三郎は二歳若かったので、まあ同時代の人だ。だからボクが見たのはこの二人の「鰯賣」だった。で、一七世勘三郞のために書かれた台本は、一八世勘三郎にもぴったりだったと思う。どの役も自家薬籠中の(自分の手に収めて思うとおりに使う)ものとし、洒脱で、芸談が魅力で、陽性なところがそっくりな親子だった。

 玉三郎は実直真面目な天才だが、勘三郎と組むともうイケない。この「鰯賣」でも時々笑わされていた。勘三郞の笑いの仕掛けに耐えているものだから、ついには堪らずぷっとなってしまい、それを隠そうとする風情も楽しかった。「鰯賣」は完全に一八世勘三郞と玉三郎のものになっていた。

 一七世も一八世も、どちらかと言えば円い感じだったが、二人の孫で息子の現勘九郎は、角張った男で、体つきも骨太を感じさせる。猿源氏の滑稽を演じるのにはムリがある。そう思っていたのだが、勘九郎はこの心配を楽々と越え、父親とは違う味だが、中村屋が連綿と続いていることを感じさせてくれた。実際に、顔の角度によっては、勘三郞が甦ったのではないかと思ったほどだ。

 「鰯賣」という作品の格を作り上げたのは、中村屋の系譜だけではない。これが三島由紀夫の作品だということも大きい。三島の硬質で研ぎ澄まされた感性とは打って変わった喜劇だが、三島には深い古典の素養があり、何よりも小さい頃から歌舞伎や義太夫狂言に親しんでいて、その知的で情的な圧力が沸騰していたのだ。

 猿源氏は蛍火に会うために揚屋にいくが、揚屋というのは置屋から高級遊女を呼び出して遊ぶ店のことである。揚屋は江戸幕府の遊郭政策と遊女屋とのせめぎ合いの中で生まれた独特の形で、やがては太夫の道中などが文化にまで高まる。だが揚屋が実際にどのようなものだったかを再現するとなると意外に難しいだろう。しかし三島には歌舞伎の舞台となる遊郭の知識がたっぷりとあり、古典にも精通していた。揚屋で傾城たちが貝合せに興ずる場面も三島ならではのもので、舞台に時代や文化の奥行きが出ている。

 もうひとつ「阿漕ヶ浦」がある。鰯売りの猿源氏の売り声は「伊勢国に阿漕ヶ浦の猿源氏が鰯かうえい(買え)」というものだが、なぜ唐突に伊勢の国や阿漕ヶ浦が出てきたのか。阿漕ヶ浦は伊勢神宮に奉納するための漁場で、一般の漁は許されていなかった。しかし平治という漁師が病気の母親のために密漁し、それが度重なって見つかり簀巻き(すまき)にされた。悪どいことを「あこぎ」というのはこの故事に拠(よ)る。その阿漕を舞台の背後に使ったのである。

 世阿弥の能に『阿漕』という曲がある。旅の僧が、密漁をして今も罪の深さに苦悩する漁師の亡霊と出会うのだが、その漁師がいつのまにか義清(のりきよ)になり、悲恋の告白に変わっていくという物語だ。

 恥かしやいにしへを、語るもあまりげに、阿漕が浮名もらす身の、亡き世語りのいろいろに、錦木の数積り千束の契り忍ぶ身の、阿漕がたとへうき名立つ、義清と聞えしその歌人の忍び妻、阿漕々々といひけんも、責一人に度重なるぞ悲しき。

 世阿弥はこの曲を、義清が出家した(そして西行となった)のは恋が実らなかったためだったという『源平盛衰記』の物語を下敷きにした。白洲正子はこの義清のいきさつを、『西行』でさらに展げてみせた。

 西行の発心のおこりは、実は恋のためで、口にするのも畏れ多い高貴の女性に思いをかけていたのを、「あこぎの浦ぞ」といわれて思い切り、出家を決心したというのである。 「あこぎの浦ぞ」というのは、〈伊勢の海あこぎが浦に引く網も/たびかさなれば人もこそ知れ〉という古歌によっており、逢うことが重なれば、やがて人の噂にものぼるであろうと、注意されたのである。

 先日、角田文衛氏の『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書)を読んで、「申すも恐ある上﨟」とは、鳥羽天皇の中宮、待賢門院にほかならないことを私は知った。角田氏は極めて慎重で、そんなことは一つも書いてはいられない。が、実にくわしくしらべていられるので、読者はいやでもそう思わざるを得ない。著者にとっては大成功といえようが、巧妙な語り口にのせられた読者の方も、悪い気持はしない。それというのも、待賢門院が、非常に魅力のある人物だからで、たとえ盛衰記の逸話がフィクションであるにせよ、西行が「永遠の女性」として熱愛し、崇拝したことに、疑いをはさむ余地はないのである。

 西行があこがれの待賢門院璋子と契を結び、もう一度会いたいと迫って「あこぎの浦ぞ」と拒否される話は、三島にとっても、よくよく承知のことだったろう。だからこそ、猿源氏には阿漕ヶ浦の神域で鰯などという下等な魚を獲らせ、その猿源氏の下等な素性を知った蛍火実ハお姫様には、猿源氏の求愛を喜んで受けさせた。そうすることで西行と待賢門院の天上の恋をパロディ化し、にぎにぎしく笑い飛ばしたのである。

 そんな子細はわからなくとも、観客には三島の何かが埋め込まれていることがわかる。またアハアハと笑いを誘いながら、勘九郎も七之助も、三島の何かをあからさまに見せないように演じている。五年後にまた見たいと思った。

2020/1/26 NozomN