草稿ノート草稿ノート

三島由紀夫

  少し重たい雪が降って、三島由紀夫を思った。3月14日〈today &〉の「覚醒の詩を書く少年春の雪」は、そのままを並べた駄句だけれど、三島の『詩を書く少年』は印象的な短編だった。文庫で読んだのが50年以上も前なのに(現在図書館で読めるのは新潮社『決定版 三島由紀夫全集』第19巻)、その後、三島を読むたびにこの本のことを思う。

 三島は少年のころ、詩を書いていただけではなかった。早熟の天才は、内外の文学文芸に親しんで身のうちに取り込み、様々に表現していた。ただ幼いながら文学文芸を通じて広がった交友は、おそらく詩性を取り巻いてのものだったろう。感受性がどこまでも鋭くどこまでも柔らかかった学習院時代、深く交友し、袂を分かった少年の複雑を、三島は30歳になって書いた。

 同じころに『ラディゲの死』を書いている。少年時代から傾倒していたレイモン・ラディゲは、『肉体の悪魔』という小説と、いくつかの詩を残して、20歳で死んだ。いま堀口大學の訳詩集『月下の一群』でラディゲの詩を読み返して、詩の配置で気づいたことがあった。

屏風 レェモン・ラディゲ 堀口大學訳

白百合のやうに清浄な少女よ
屏風のかげであなたは裸になる
このお行儀が私をかなしませるので
あなたはひなげしのやうに真赤になる

 ラディゲは14歳のときに年上の女性と出会って学校をサボり始め、放校処分を受けた。『肉体の悪魔』はそのときの女性をモデルにした小説だ。おそらく「白百合のやうに清浄な少女」も彼女のことだろう。

 こうしたラディゲの四行詩の数編を読んで詩才の大きさに気づき、彼をジャン・コクトーに紹介したのは、詩人のマックス・ヤコブ。紹介されたコクトーもまたラディゲに惚れ込み、自分の知り合いにラディゲを紹介して歩いた。ここで広がった交友がラディゲが構想していた『肉体の悪魔』の執筆を加速させたらしい。出版されると内容の反道徳性が評判となって、ベストセラーとなった。この印税でラディゲはコクトーと共にヨーロッパ各地を転々とする。

 『月下の一群』には、ラディゲの詩群の前にはマックス・ヤコブの詩群があり、ラディゲの後にはジャン・コクトーの詩群が配されていた。ボクは初めてこのことに気づいた。これは堀口大學の、はからいだったのだろうか。

 ところでラディゲは、つぎの本の執筆中に腸チフスに罹った。病床で、コクトーとの旅で書き上げた『ドルジェル伯の舞踏会』の校正をしながら、やがて死の床についた。あまりの早逝にコクトーは深い悲しみから立ち直れず、以後10年にわたってアヘンにのめり込んでいった。

 『ジャン・コクトー全集Ⅳ』(東京創元社)には、ラディゲに関する短編がある。「レーモン・ラディゲ『肉体の悪魔』」「レーモン・ラディゲ」「ケイト・グーシュ『ラディゲ』序文」の3つだ。ケイト・グーシュという作家の本は読んだことがないが、コクトーはこの本の序文でつぎのように書いた。

彼は混乱のさなかにやってきた。言語は崩壊し、規律に対して反抗していた。彼はマルヌ川のボートのなかで、パルク・ド・サン=モールで、父親から借りた本を読んでいた。ぼくたちは彼のクラスィックになったが、彼はぼくらに反対することを夢想していた。それゆえぼくは、この生徒がまもなくぼくの先生になって、新しい秩序をぼくに教えてくれるだろうと、直ちに察したのだった。

コクトー

ラディゲ肖像画の前に立つコクトー(『ジャン・コクトー全集Ⅳ』口絵)

 この全集には、「阿片」という短編もある。ラディゲの死から数年後、二度目のアヘン治療に入った療養院での半年を書き綴ったものだ。

 ちょっと話が逸れるが、オルダス・ハクスリーはメスカリンの実験に参加し、その体験を『知覚の扉』で詳しく考察している。彼の祖父も兄も異母弟も著名な生物学者、生理学者、医学者で、一人はノーベル賞受賞者である。だからか、文体は極めて分析的なのだが、体験を語る各所には驚きと興奮が満ちている。

 彼はこの体験を通して、こんな仮説を立てた。人間はもともと、宇宙のすべてを知覚している。しかし脳がそれを制御して、知覚を鈍くしている。たとえばゴッホのような希有なアーティストはその制御をかいくぐるが、多くの人間は真に物をみることはできない。しかしメスカリンが脳の制御を解いて、自分は真実を見ることになったのではないか。

 これに対してコクトーは「阿片」で、中毒患者の自分と周りに目を凝らしながら、そこに湧き上がった思念を淡々と書き述べている。あまりの穏やかな筆の運びに、かえってコクトーの苦しさや悲しみの深さが伝わってくるようだ。

 三島は自分と二重写しになって傾倒したラディゲの晩年から臨終までを、このようなコクトーの目を借りて、『ラディゲの死』として書き上げた。文庫本の『ラディゲの死』は、三島が十七歳から三一歳までに書いた13の短編を編んだもので、『ラディゲの死』はその一編という作りである。それぞれを読むと、三島が言葉の世界を深めながら、現実と直結するのは肉体以外にはないという思いを強め、言葉と肉体の齟齬に捉えられてきた14年間だということがわかる。『ラディゲの死』は、そうした齟齬の中心に据えられた物語だった。

 『詩を書く少年』と『ラディゲの死』が同じころに書かれたことは前に書いたが、先に取り上げた『鰯賣戀曳網』もこのころの作である。三島は『私の遍歴時代』の中でこんなことを語っている。「芝居には知的な興味から入って行く人と、体ごと入ってゆく人と、二種類あると思う」と。

 三島がその文体で示したとおり、彼の知的な興味とレベルは並外れていた。だからこそ彼は、知性を脱して体で感じ、行動することを願った。絢爛精緻な文体を極めながら、それを脱して体で表現したかった。

 祖母の夏子は病弱な三島を溺愛し、自分の手元で育て、女言葉を使わせ、狭い狭い美と芸の世界へとのめり込ませていった。三島はいつか自分の中に詩質があることを意識し始める。三島少年はやがて祖母のおくるみから這いだし、祖母が惜しみなく与えた知芸の世界からも脱皮した。そして詩に傾倒し、ラディゲを敬愛し、大切な友人との交友と疎遠をへて、詩の世界からも脱皮しようとしていた。

 『詩を書く少年』は、三島が肉体言語の覚醒を得た分岐点だった。彼はその後はもう覚醒も脱皮もしなかった。一直線に民兵組織へ、『春の雪』へと駆け出していった。

2020/3/17 NozomN