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夜川菁二(實朝ノート3)

 子規が35歳で死んだのは1902年(明治35年)で、この年に斎藤茂吉は第一高等学校に入学して20歳になっていた。その翌年の1903年、市井の歌人、夜川菁二が生まれた。

 茂吉は23歳のときに正岡子規の遺稿『竹の里歌』を読んで心を揺さぶられた。翌年伊藤左千夫を訪れ、すぐに『馬酔木』に歌5首が載ることになる。茂吉26歳のときに雑誌『アララギ』が創刊され、その第1号に短歌3首が載った。31歳で第1歌集『赤光』が上梓されたのだから、作歌スピードはかなりなものであっただろう。

 茂吉が52歳で『柿本人麻呂』を上梓した1934年(昭和9年)、30歳になった夜川菁二は初めてアララギ歌会に参加した。

この朝け霜のふれればふるさとの白膠木(ぬるで)の木の実塩ふきぬらむ

 菁二が歌い初(そ)めたのは、ふるさと諏訪の、冬の始まりの景であった。白膠木(ぬるで)は白い樹液を出し、紅葉が見事な木である。だから俳句でいえば紅葉を詠った句が多い。

もみじして松にゆれそふ白膠木かな 飯田蛇笏
漆色に似せてぬるでの紅葉かな 大村由己

白膠木

▶白膠木の木

 白膠木は、葉を白や赤に塗り変えるので「ぬるで」なのだとも言う。しかしこの歌は、そのような謂いを一顧だにしていない。白膠木の木の実に霜がふれれば塩が吹いたようになったと、簡明直截なのである。

時により過ぐれば民の嘆きなり八代竜王雨やめたまへ 源實朝
灯火(ともしび)の明石大門(あかしおおと)に入らむ日や榜(こ)ぎ別れなむ家のあたり見ず 柿本人麻呂
この朝け霜のふれればふるさとの白膠木(ぬるで)の木の実塩ふきぬらむ 夜川菁二

 子規が示した實朝の歌と、茂吉が取り上げた人麻呂の歌と、菁二の歌とが、見事に軌を一にしていることがわかる。夜川菁二は1944年(昭和19年)6月24日、満州で病没するが、その2年前までに3百余首を作歌した。

己が子に嘆きを持ちて云ふ母に思ひ居し事も吾は云ひ得ず
いきほひて銃にぎりつつ眼閉ぢたかぶれる心おさへむとする
巻き立つほこりの中にひるがへる弔辞の白き紙を見てをり
咲き初めし梅の木の間のやはらかき春日の光書院の窓に
幾代を経にし家かも住みがてに売る今日にしも我は逢ひつる
移り住み間無く幼等遊びつつ父より先に満語を使ふ
満州に命いたさむと気負ひたる心空しく君を死なしぬ
落馬して意識不明なる子を残し捜索隊を率ゐ発ちゆく
北遠き国の果にし我が骨を埋めむ所と子等気負ひけり

 数歌を取り出して並べてみるとよくわかる。写生も感慨も實朝、子規、茂吉の水脈を辿って湧き出たように、万葉ぶりがそのまま伝わってくる。たとえば、

川のうへのつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は

 と歌った春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)は、僧・弁紀が701年に還俗してからの名であるから、1200有余年を経て、同じ詩魂がこの日本を貫いていたことがわかる。

 夜川菁二の同型は、当時の日本に幾万とあったであろう。源流の万葉から、實朝という水路をへて菁二に至る、簡明直截を吐露するという詩魂である。

 これらの歌は修辞や技巧を呼び込みにくく、歌人の骨格や骨柄を露わにさせずにはおかない。ために、一角の人物が一角の歌人であったとは限らないが、一角の歌人は紛れもなく一角の人物であった。

 夜川菁二は本名を横川正二と言う。18年間を郷里の諏訪で教員生活をしたのち、昭和16年、38歳のときに満蒙開拓青少年義勇軍を率いて満州に渡った。その半年後には一家をあげて満州に移り住んだ。そして昭和19年、41歳で満州に病没する。

 横川正二が病に斃れるに到る満州の3年間の苦闘は詳述しないが、それは幾万の志ある人たちの苦闘と同じように、花も実もある壮大な物語であった。当時の横川中隊隊員たちが、後年その物語をモザイクのように再現した。

 『遙かなり』と題された本を読むと、そこには横川の為したことと、夜川の歌が掲げられている。一方は横川隊の少年隊員たちが綴ったもので、一方は横川自身が歌ったものである。しかしここにあるのは間違いなく万葉の益荒男振りで、世渡り技術の片々も、表現技巧の片々もない。

 實朝研究の多くは、實朝の「貴種」を軸に論じられている。それも實朝を理解するツテであることは確かだろう。

 しかし一方で實朝の歌は、貴種の危うさや非現実の中に浮遊していた人の産物だとは思えない。もっと骨格や骨柄がしっかりした実在ではなかったのだろうか。子規、茂吉、市井の歌人へとつながる水脈が、そう確信させる。

『遙かなり』

 市井の歌人・夜川菁二、市井の益荒男・横川正二は、四半世紀後に、株式会社すかいらーくを創業した横川四兄弟を生み出すことになった。その長兄・横川端が編んだのが『遙かなり』(2007年刊)であった。縁あってご恵送いただき、これを資料とした。『遙かなり』のタイトルは、

弟の満州への出立に見送らず今も遺憾の念に堪えなく

 と痛恨した横川正二の兄・横川毅一郎の、

遙かなる異国の土地に痛み逝きし弟よさこそ侘びしくありけん

に拠ったものだと思われる。

2021/1/16 NozomN

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