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斎藤茂吉(實朝ノート2)

 正岡子規の門下生たちの集まりを根岸短歌会と言った。根岸は子規が住んでいた町だった。豆富料理屋の「根岸笹乃雪」は今もあるが、子規はここを贔屓にしていて、病床に就いて通えなくなったあとも、好物の「あんかけ豆富」をよく届けさせたという。

正岡子規碑

▶根岸「笹乃雪」前にある子規の碑
水無月や根岸涼しき篠の雪
蕣(あさがお)に朝商ひす篠の雪
の二句が刻まれている。

 この根岸短歌会は子規没後も続き、伊藤左千夫等が中心になって『阿羅々木』を機関誌とした。1908年のことで、翌年から『アララギ』と改題した。これが後の短歌会の大立て者、斎藤茂吉を生み出すことになる。

 高校生であった斎藤茂吉が子規の歌集を読んで感動したとき、子規は既に亡かった。茂吉は伊藤左千夫に師事し、歌人を志すことになる。

 茂吉は東京帝国大学医科大学(現東大医学部)医学科を卒業してウィーン大学、ミュンヘン大学に4年間留学した。その後精神科医として教職にも就き病院勤務もした。

 そのような職業生活の一方で、茂吉は生涯をかけて1万7907首の歌を詠んだと言われる。俳句では小林一茶の2万余句が傑出しているが、それと比べても茂吉の多作ぶりは際立つ。

 茂吉は『アララギ』を通じて作歌に励むばかりでなく、子規の歌論を一層広めようと勤めた。そして1938年には、『万葉秀歌』を上梓した。

『万葉秀歌』

▶『万葉集』は629年から759年までの130年間の歌を収めた日本最古の歌集である。20巻から成り、4540首が収められている。ほとんどが短歌だが、長歌、旋頭歌、仏足石歌、漢詩も含む。茂吉はここから4百余首を選び、すべてに丁寧な解説をつけた。たとえば、

灯火(ともしび)の明石大門(あかしおおと)に入らむ日や榜(こ)ぎ別れなむ家のあたり見ず (二五四 柿本人麻呂)

……歌柄の極めて大きいもので、その点では万葉集中まれな歌の一つであろうか。そして、「入らむ日や」といい、「別れなむ」というように調子をとっているのも波動的に大きく聞こえ、「の」、「に」、「や」などの助詞の使い方が実に巧みで且つ堂々としておる。特に、第四句で、「榜ぎ別れなむ」と切って、結句で、「家のあたり見ず」と独立的にしたのも、その手腕敬憬すべきである。……

(『万葉秀歌』斎藤茂吉)

 斎藤茂吉が『万葉秀歌』を通して広めようとしたのは、万葉の率直で写実的な歌風であった。後にいくつかの批判はあったが、茂吉の試みは大きな流れとなり、短歌が国民的な文芸となった。『万葉秀歌』の初版は1938年だが、以来版を重ね、今も岩波新書に引き継がれている。

2021/1/10 NozomN

*根岸笹乃雪さんは、新築移転の準備のため現在休業中とのことです。令和3年秋頃の再開を予定されているようです。

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