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56 自慢という悪癖

賢者と愚者

 自慢は、カチョーが陥る悪癖である。しかも、ただの悪癖ではない。一流カチョーになるか、三流カチョーに堕ちるかの分水嶺であり、切所である。知恵の王と言われたイスラエルのソロモン王は、三千年も前にこのことに気がついて、「賢者は聞き、愚者は語る」と言い残した。これをさらに処世の心得として説いたのは、わが国が誇る猿楽師世阿弥である。彼は芸道を論じた著作『風姿花伝』で、「秘すれば花なり秘せずは花なるべからず」とキッパリ言い切った。これも六百年前の話である。昔の人は見えていたのだ。

秘すれば花

 世阿弥が、秘すれば花といった花とは、何も深遠なことを指しているのではない。同じ著作の中で「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」と解き明かしてくれている。世阿弥のフィールドは演ずることであったから、花がある演技とは何かを言うために、花という言葉をつかったに過ぎない。花とは面白くて珍しいものであり、さらに注釈すれば、感動を呼ぶ表現のことであった。

秘せずは愚か

 すなわち、秘さないものは花ではなく、面白くも珍しくもなく、感動も与えないということだ。そんなことを殊更にするのは、愚者としか言いようがない。自分が成した良き事々を披瀝することで愚者だと見られるとは、引き合わぬ話だが、それが愚者の愚者たる所以だろう。

悪癖の動機

 では、カチョーがそのような自慢の悪癖に染まりながら、三流に転落するのは何故なのか。カチョーに限らない。ブチョーも、シャチョーも、ブカでさえも、人に知られぬ工夫や努力や業績というものがあり、放っておけば人に知られぬまま永久に葬られてしまう無念があるからである。葬られることが惜しいのだ。わが手腕を明らかにしておきたい、と渇望するのだ。

錯覚

 しかし、自慢カチョーは、次の一点を理解していない。すなわち、まともに仕事をしている人間なら誰でも、人には見えぬ工夫や努力がいささかはあるもので、そのことには大いに価値はあるのだか、取り立てて言うほどのこともない普通のことだということを。そのことを、わが身一人が特別だと披露するところに滑稽な錯覚があり、相手を興ざめさせるということを。

色に出にけり

 いや錯覚ではない、これはやはり、他に比しても特別な工夫と努力と見識と英断とたゆまぬ気配りの賜である、との反論がムクムクと沸き立つ御仁もおられよう。もしそうであれば、そのような積み重ねは、その御仁の日々の仕事ぶりに、指導ぶりに、業績に、議論に、隠そうとしても隠しきれず、包もうとしても包みきれずに、匂い出るものなのである。立ち姿や背中に、その色合いがどことなく出るものなのである。それが出色ということで、他に比して面白くて珍しく、感動を与えずにはおかない花のある風情なのである。