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60 饗応

元禄赤穂事件

 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、吉良屋敷に赤穂藩の浪士四七士が討ち入り、吉良上野介を討ち果たした。その約2年前、江戸城内の松の廊下で、赤穂藩藩主・浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰で、浅野は切腹、吉良はおとがめなし、とされたことに不満をもった家来たちの、仇討ちであった。

仮名手本忠臣蔵

 この事件は、世間に大衝撃を与えた。仇討ちといえば、曾我兄弟である。討ち入りの翌年には、『曙曽我夜討』が上演された。もちろん、曾我兄弟の仇討ちに擬した赤穂事件が題材である。しかし2日で上演禁止になった。4年後に、近松門左衛門の人形浄瑠璃、『碁盤太平記』が上演された。さらにいろいろに形を変え、42年後にできたのが、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。現在歌舞伎で見ることができる同名の作品も、このときに出来た。ただし、お上をはばかった当時のまま、太平記と赤穂事件がゴチャゴチャにまざっているので、史実を思い浮かべながら観劇すると大混乱をする。

饗応役

 この事件のとき、浅野内匠頭長矩が担当していたのが饗応役である。饗応役は江戸幕府の正式な役職で、天皇、上皇、皇后から派遣された使者を接待する役目であった。人々が集まる様子を表す郷と食が合体した饗の字が示す通り、これは食事を中心にした接待役である。これには外様大名が任命されたが、宮様のお使いを接待するには決めごと忌みごとが数々あって、心得がなければ難しい。そこで饗応の諸事万端を教導したのが、高家の吉良上野介義央だったのである。

高家

 高家(こうけ)も、江戸時代の職のひとつだった。ただし、名門、名家でなければ就くことができない。高家22家は、どれも太平記などに登場する家名で、公家や足利一門に連なる家柄から選ばれたようだ。仕事は幕府における儀式や典礼の仕切り。この中でも有職故実や礼儀作法に精通している三名を選び、「高家肝煎」とした。吉良義央は、この肝煎に最初に選ばれた一人だった。忠臣蔵では、吉良上野介が礼儀作法を教授する代わりに、諸大名から金品の謝礼を受けており、その多寡を巡って浅野内匠頭をいじめ抜いたことが、刃傷沙汰のキッカケになっている。しかし高家は、礼儀作法の教授料を金品で得ることは認められていた。

饗応おそるべし

 カチョーが忠臣蔵から学ばねばならないのは、仇討ちの方法や、そこに至る隠忍自重の大石内蔵助流ではない。むしろ饗応役・高家というお役目設置から、刃傷沙汰、仇討ち、浄瑠璃、歌舞伎の演目にまでなってしまった、饗応というものの大儀さをこそ注目すべきである。饗応とはかように大事業であって、お客をダシにして、会社のカネで飲める機会などの軽いものではないのである。