書斎から NozomN の書斎から

スターダスト

  遊びをせんとや生れけむ
  戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声きけば
  我が身さえこそ動がるれ

 だれが作った歌かは知らないけれど、このまま消えてしまうのは惜しい。そう思った後白河法皇は、こうした今様(流行歌)を書きとめさせ、『梁塵秘抄』にまとめた。

 木造軸組の家は柱と梁(はり)で組む。横に組む梁には、塵(ちり)が積もる。その塵が、漢代、魯の虞公の歌声の清らかさに震え、動いたというのが「梁塵」のいわれである。なので『梁塵秘抄』は、「魅惑の歌謡大全」といったところだ。

 だが、梁塵にはもっと隠れた意味がある、とぼくはニラんでいる。昔の歌謡は口伝えだから、年が経てば忘れられてしまう。時間に吹きさらわれる塵(ちり)や屑(くず)のようなものだ。だから塵や屑になるまえに、良いものだけでも拾い集めておきたい。と、そのような意味も込めたのではないだろうか。

 ラリー・ペイジは、「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」ためにグーグルを創立した。後白河法皇がやったことを、もっと広げようとしたのである。後白河法皇はありったけの情報を集め、その中から残したい歌謡を自分で選び出した。ラリー・ペイジはありったけの情報を集め、そこから探したいモノを探し出せる検索エンジンを作った。

 後白河法皇とラリー・ペイジがしたことは似ているのだが、ひとつだけ違いがある。それは塵(ちり)の扱いである。後白河は良歌を選ぶことで、結果的に他の歌を塵だとして捨てた。見捨てられた塵はそれ以降甦らなかった。ラリーは塵か否かを選別しなかった。塵かも知れないものまで膨大に保存した。

 どちらが良いのだろうか。こんなことがある。現役で仕事をしていたころ、ぼくの名をグーグルで検索すると6千件くらいがヒットした。いま検索してみると1千件ほどになっている。あれ、消えてしまった5千件はどうしたのだろうか。だれかが選別したのだろうか。

 あるいは、こんなこともある。カミュの「ドン・ファンの生き方」(『シーシュポスの神話』に所収)を読んで、里見弴の『多情仏心』を読み返したくなった。で、アマゾンで探してみたら、新本はなく、古本が7冊ある切りだった。あの里見弴の本が、である。

 武者小路実篤や志賀直哉と雑誌『白樺』を創刊した、志賀直哉の『暗夜行路』のモデルの一人になった、川端康成と「鎌倉文庫」を創設した、鎌倉文士の象徴だった、文化勲章受章者だった、小説家の有島武郎、画家の有島生馬の実弟であった、あの里見弴が、である。

 里見と近かった多くの作家の著作が残り、あるいはキンドル化されているものも少なくないのに、里見の著作は消えかかっている。当時は絶大な人気を誇った作家も、時代とともに読者に選ばれなくなった。するとアマゾンから消え、「さとみとん」の変換さえできなくなっている。

 グーグルの情報も同じことだろう。情報は存在したとしても、検索されることがなくなれば、膨大な塵のひとつとして星雲の彼方に遠ざかっていくだけだ。

 ということは、うっかりしたことをウェブに書き残してしまっても、さして心配することはないということだ。時間がうっかりをスターダストにしてくれる。そのスターダストも、やがては宇宙の暗黒に飲み込まれてゆく。

 どんな失敗も、どのような失態も、恥も、悔いも、永くは留まらない。どう記録されていようとも、後に生きている人たちにとっては、宇宙の暗黒を漂う塵に過ぎないからだ。

2020/12/9 NozomN