書斎から NozomN の書斎から

相手に成る

 家内との暮らしが47年、仕事のパートナーとは37年、知り合った人たちとの付き合いも、それぞれ長くなった。良かった付き合いもあるけれど、悔いが残る付き合いもある。悔いが残ったのはなぜだろう。良かった付き合いは、何がそうさせたのだろう。

 チームの仕事は、みんなの気がそろうと力になる。気がそろうときは、みんなが同じ方向を見ていたような気がする。

 家族もそうだ。食卓を囲んで向き合うばかりでは乗り切れないことがある。家族にはいろいろなイベントがあり、悶着があり、困惑があり、破綻があり、希望や期待がある。そうしたときは、家族で一緒に見ているものがあると救われる。

 アメリカ映画の警察物では、ブリーフィング(状況説明)やディスカッションで、刑事たちはコの字やロの字ではなく、教室形式に座っている。やりにくそうだが、これには意味があって、ブリーフィングをしながら、犯罪捜査に向かう気持ちをひとつにするのがネライだ。

 これを円卓の議論にすると、相手の言い分と自分の言い分、価値の大小、他のメンバーの支持などに気を奪われ、みんなで同じ方向を向く機運が失われる。

 みんなが同じ方向を向くには、目線の先に大きな旗が立っていると分かりやすい。経営方針とか、家を買うとか、息子の受験とか、親を介護施設に入れるとか、犯人を追い詰めるとか。

 経営管理では、みんなが同じ方向を見るように、目標という旗を立てる。知り合いや家族でも、ときどき目標を持つことがあって、そんなときはお互いの結びつきが一層強くなる。

 しかし生活の中の結びつきでは、共通の目標を持つことはそれほど多くない。それに、良い付き合いに、目標や目的は必要なかったような気がする。

 では何が相手とぼくを結びつけていたのだろうか。言い方はいろいろあるだろうが、「相手になる」ことだったと思う。相手が言葉や態度や仕草やその他で語ることを受け容れて、そっと相手に成り替わってみる。つまり「相手に成る」のである。

 「相手になる」とはふつう、相手に対抗する、戦いに応じる、付き合う、といった意味だが、本当は「相手そのものに成る」ことだったのではないだろうか。いつも出来ることではないが、程の良いときに、程よく、「相手に成る」ことが出来た相手と、良い付き合いが続いた気がするのだ。

 エゴ(自我)の意識は大事だと思う。エゴは哲学や精神分析学の用語で、この言葉には、正確には対語がない。それは、エゴがすべての基盤だからだ。エゴが目をつぶれば世界はなくなるのであり、エゴがあるから他のものが存在するのである。

 だが、エゴイズム(利己主義)にはオルトルイズム(利他主義)という対語がある。オルトルイズム(altruism)は19世紀の哲学者オーギュスト・コントの造語で、これを日本では「利他」と訳した。利己に対して利他だから、ちょうど対をなして都合が良い言葉になった。だが、利他の方はよほど古い言葉で、功徳によって他者を救済する、という意味の仏教用語だ。

 自国を大事にすることと自国第一主義が天地の違いであるように、エゴを大事にすることとエゴイズムは天地の違いがある。エゴを大事にする者同士が、相手のエゴに近づいてそれを受け容れる。これまでに良かった付き合いの形は、これであったような気がする。

 良い付き合いによって、相手から、自分から、ぼくは救済を受けていたのだと思う。

2021/1/5 NozomN