書斎から NozomN の書斎から

在るだけでいい

 久しぶりに、金子みすゞの詩を見た。と言っても、詩の一部だけだけれど。

みんなちがって、みんないい

 これは「私と小鳥と鈴と」という詩の最後のフレーズだ。

 金子みすゞは明治36年(1903年)に生まれ、500編余の詩を残し、26歳で没した。生前に雑誌などに掲載されたのは100編余で、当時はずいぶん賞賛されたらしい。しばらく忘れられていたが、半世紀後の1984年に遺稿集が発見されて広く読まれるようになった。発見の翌年には東大の試験問題に「大漁」などが採用されたし、その後「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に登場することも多くなったという。

 ぼくの年代では教科書で見ることはなかったけれど、若い人なら習った覚えがあるかも知れない。10行ほどの短詩である。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 とても不思議な詩だ。短い詩の中に、否定の言葉が4つも出てくる。

 飛べない、走れない、音は出ない、唄はしらない。

 それなのに、すごく肯定的だ。金子みすゞは、やさしい言葉だけで真実を拾い上げる名人だから、その代わりに、否定を二連にして肯定を強調したり、タイトルの「私と小鳥と鈴と」を、詩句では「鈴と、小鳥と、それから私」に入れ替えて主体をずらしたり、といった修辞で意味の奥行きを補ったのかも知れない。

 で、この詩句が、ビートルズの「アビーロード」のジャケットみたいな、東京パラリンピックに出場したトライアスロンの選手7人の写真に添えられて、Twitterで広がっていた。義手の選手、義足の選手、車イスの選手たちが、ビートルズよろしく歩道を渡っている写真に、「みんなちがって、みんないい」は、いかにもフィットしていた。

 けれども、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」は、人間同士のちがいを言っているのではない。鈴と小鳥と私のちがいを言っているのだ。もちろん鈴と小鳥と私のちがいに仮託して、人の世のことを言っている気配もある。それでも、彼女が言いたかったのは、鈴でも小鳥でも人間でも、ただ在るだけで価値がある、ということだったと思う。

 東京大会では、オリンピック選手もパラリンピック選手も、「みんなを元気にしたかった」と言っていた。新型コロナの感染下だったので、余計にそうした気持ちになっていたのだろう。けれども、選手や関係者が、大会の意義を一斉に強調するのはどんなものだろう。

 大会に出て、自分の最高のパフォーマンスを引き出す。それだけでもいいような気がする。見た人の受け止め方はさまざまで、中には元気になった人もいただろう。癒された人もいただろう。娯楽として楽しんだ人もいただろう。選手には選手の思いや意地があり、見る方にはそれぞれの受け止め方がある。「みんなを元気にしたい」というのには、微かな押し付け感がないだろうか。

 オリンピックやパラリンピックに出場できるのは、ほんの一握りの選手だけだ。長い間の努力や、周りの期待や応援や犠牲に応えられなかった選手もたくさんいるはずだ。そんな選手たちは「みんなを元気にしたい」どころではなかったろう。トップ選手だけが選手としての意義を語るなんて、何かヘンな気がする。

 自分がやりたかったからやった、それだけで良いのではないだろうか。他人のために頑張ることだって、それがやりたいことだったら、それでいい。そうでないと、「みんなを元気にする」ことや、意義が唱えられないものには、価値がなくなってしまう。ただ為す、ただ在る、ことに、価値がなくなってしまう。金子みすゞは、このような意義が作り出す奇妙な価値差別を、取り払いたかったのではないだろうか。

2021/9/22 NozomN

   

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