書斎から NozomN の書斎から

決めても決めても

 決めるって、なかなかなことである。何も決めないでいる、というのが楽ちんだから、できれば決めたくない。決めたくない、と言ってしまうとミもフタもないから、後回し、先送りにして、なんとなく決めることを遠ざけておく。

 けれども、お昼に何を食べるか、とかは決めなければならない。「うーん、何にしようかな、キミ、何食べたい?」なんて、決めることを押し付ける相手がいれば良いけれど、ひとりだったら何とかしなければならない。

 こんなときは迷わず「ラーメンと餃子」と決めておくテがある。その他に「炒飯と餃子」もあって、このふたつを繰り返すテもある。一度だけ決めておけば、あとは決めなくても済む。

 スティーブ・ジョブズは年がら年中、Tシャツとジーンズだった。IT系の人たちはラフな格好をしているから、あれと同じ感じ。ちょっとちがうのは、ジョブズはラフなだけでなく、いつも同じものを着ていた。Tシャツとジーンズ、と一回だけ決めて、同じ寸法、同じ色のセットを何十着と注文していた。どこかで読んだ話だけれど。

 ジョブズは着るものを選ぶ時間がもったいなかった。決める価値のないことは決めたくなかった。どうでもよいことを決めるなら、一度切りにしたかった。で、決めることを先送りする代わりに、前倒しした。ラーメン餃子と同じテである。

 決めるとは、こんなテを使ってまで逃れたくなるほど、厄介なのである。AかBかを選ぶのに、断然Aだ、というのなら断然Aである。AかBかCか‥Zか、となっても、断然Aだ、というのなら断然Aなのである。これなら決める必要はない。

 しかし、Aだと決めることは、Aを選ぶと同時に、Bやその他を選ばないことである。捨てることである。Bその他を選んだら開けてくる壮大(かも知れない)な未来を諦めることである。

 だから断然Aならばラクなのだが、Aも良いけれどBも良い、Cも‥も捨てがたいとなると、それぞれを選んだ未来が浮かんでは消え、消えては浮かんで、未決未練の迷宮を彷徨(さまよ)うことになる。

 これが、限られた資本をABCDのどの新事業に投下するか、という問題ならば、ABCDをあらゆる点から比較検討したり、比較項目を点数化して集計し、それを科学的根拠と称して決断してもよい。あるいは決断項目の優先度を指数化し、それを掛け合わせればなお納得が増すだろう。

 しかしモンダイはお昼のことである。あるいはきょう着る服のことである。新事業と同じでは「牛刀をもって鶏を割く」ことにならないか。大したことを書いているわけではないこの原稿のように、「牛刀をもって」なんて大時代なコトバを使うのと同じことにならないか。もう少し軽く考えても良いのではないか。

 しかしまた、就職のモンダイがある。結婚のモンダイがある。これらが新事業と同じ決め方では、人間の真情というものに欠けはしないか。お昼の決め方と同じではいかにも軽すぎはしないか。

 またさらには選挙のモンダイがある。どんなに考えて決めても果てしなく希薄してしまう決定に、新事業やお昼や結婚の決め方と同じでは、具合が悪いような気がする。

 さらにさらにモンダイは、会議、寄合で賛成すべきか、反対すべきか、自転車でコケたオジさんに手を差し伸べるか見ぬふりするか、それがキレイなおねえさんの場合はどうするか、他人が見てはいないけれど空き缶はベンチに置いていかない方が良いか、ちょっとなら構わないか、チップは15%か20%か、今夜はいいちこか黒霧島か、こうなるとモンダイが果てしないことがモンダイに思えてくるのである。

2022/5/11 NozomN

   

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