書斎から NozomN の書斎から

決めるための常識

 決めても決めても、モンダイは果てしなく出てくる。

 言うまでもなく、モンダイとは、問題のことである。

 問がついたコトバに問屋、がある。トンヤと読むが、少し前まで(江戸時代あたりのことね)はトヒヤと書いてトイヤと読んだ。品物を買い集めて卸売りする商いのことを言ったから、今と同じ意味である。

 問屋をトフヤと書いてトウヤと読む仕事もあった。他所から来た商人が土地のことを尋ねたり、人馬の継ぎ立て(人馬を替えて、貨物や客を送り継ぐこと)を頼むインフォメーションセンターみたいな仕事だった。

 トイヤもトウヤも、人々の問に応えるためにできた機能である。そして人々の問によって品揃えや機能を充実させてきた。求める側と求められる側とを結ぶものが問であるから、問屋(トイヤもトウヤも)は、マーケティングの原型だろう。

 問題とは、そうした問の一字を抱えたコトバだ。だから問題に向かい合うには、周りから何が問われているか、何が求められているかを探ることが大事なのである。これが決めることの第一歩だ。

 周りから何を問われているかを深く探る代わりに、常識をモノゴトを決める縁(よすが)としても良いのだろうか。良いのである。

 常識は社会の大数だからだ。大数というのは、大きいとか多いとかいう意味で、大勢や多数に従っておけば、摩擦がなく生きやすいということだ。

 大数の法則、という統計学のコトバもある。サイコロを振って出た目の平均は、振る回数が少なければ片寄るが、回数を増やすほど3.5に近い数字に収束する。これが大数の法則で、サイコロの出目の世界では、3.5が大数の結果であり、常識の辺りなのである。

 ただし出目が3.5に収束するには、サイコロに歪みや片寄りがないことが条件だ。だが、人間にそんな条件を当てはめることはできない。世の中には、時代や、土地の風習や、経済や、流行があって、それが人間の歪みや片寄りを作っている。そうした歪みの上に成り立つ常識なのである。

 だから常識が正しいとか間違っているとかの議論には意味がない。常識とは大数を根拠にしているだけなのだから。

 常識がある、とは、大数を見極める力があることだ。統計学のコトバにこだわらなければ、相場を見る力があるということだ。これはマーケティングに似ている。マーケティングは人々の行動に目を向けるだけではない。行動の奥にある欲求や忌避、その裏側にある気持ちのヒダにまで目を届かせて深めてゆく。常識もマーケティングもレベルを極めれば、なかなかのものなのである。

2022/5/18 NozomN

   

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