草稿ノート草稿ノート

身捨つるほどの祖国はありや

 オレゴン州は民主党の地盤だから、知り合いのみんなはバイデンを支持したのだろうか。

 これまで、ポートランド滞在が大統領選挙終盤と重なることが多かった。オバマのときは、ほとんどの家が、「OBAMA President」や「OBAMA BIDEN」の庭看板を刺していた。リタイヤした金持ちが住むレイク・オスウェゴという町でも、見渡す限り、オバマの庭看板で埋まっていた。

 しかしヒラリーのときは、「HILARY」の看板はまばらだった。オレゴン州は民主党を選んだけれども、ヒラリーを選んではいない感じがした。だから接戦でトランプが勝利したとき、アメリカはトランプを選んだと言うより、ヒラリーを選ばなかったのだなあ、という気がした。

 それからのアメリカは、トランプ支持と、トランプ不支持に分かれていったような気がする。AかBか、ではなく、AかAでないか。国民の半分ずつが、お互いを排除し合う。

 アメリカは不幸になったように見えた。大統領選が終わって、双方が恨みっこなしでノーサイドというのでなく、政治はどちらか半分のものになった感じだった。戦争も内戦もないのに、「祖国」の居心地が悪くなったように見えた。自分の居場所がなくなったと感じた人も多くなったようだった。

 アメリカの知り合いを思うと、やるせなさが大きくなる。しかし、もっと悪いことだって起きていたかも知れない。もっと取り返しがつかなくなった可能性もある。それよりはマシだった、と考えてみるか。

 映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』で12歳のイングマル少年はつぎのようにつぶやく。

「あのソ連のスプートニクに乗って死んでしまったライカ犬よりは、ボクの人生の方がズーっと幸せだ」
「アフリカに行った宣教師が殴り殺されてしまった。その人の人生より、ボクの方がずっと幸せだ」
「31台のバスを並べてオートバイで飛んだ人が、首を折って死んでしまった。30台だったら助かったかも知れないのに。死なないで生きているボクは幸せ者だ」

 イングマル少年の母親は病気で、ベッドで本ばかり読んでいる。その母親に少年は愛情の限りを尽くすが、その表現が過剰でいびつなため、母親を疲れさせ怒らせ、愛犬とも引き離されて叔父さんの家に引き取られる。母親への愛情が報われず、母親からの愛情に飢えた少年は、時として奇矯な行動に走るが、そうした自分のバランスを取り戻そうとして、ときどき上のようにつぶやくのだ。

 この映画は、スウェーデンのラッセ・ハルストレム監督の1985年の作品だ。彼は翌年に『やかまし村の子どもたち』という秀作を撮り、ハリウッドに招かれて『サイダーハウス・ルール』を制作した。

 『サイダーハウス・ルール』は、ジョン・アーヴィングの小説が原作で、主人公は、孤児院で育ったホーマー・ウェルズという若者と、孤児院を運営するラーチという堕胎医だ。

 『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』も『サイダーハウス・ルール』も、ハルストレムの映画では、主人公のやるせなさが観ていて辛い。しかし主人公はやるせなくても、物語が明るさを湛えているのが不思議だ。それは映画のそこここに、やるせなさの処方が点滅していたからだろう。

 『サイダーハウス・ルール』を観返すと、孤児院で孤児に繰り返し読み聞かせている本が、『ジェーン・エア』『大いなる遺産』であったことに気づく。ふたつとも、孤児が主人公の物語で、最後には自分の人生を獲得する物語だ。

 『ジェーン・エア』も『大いなる遺産』も、何度も映画化されている。日本では、何人もが翻訳し、多くの出版社から訳出されている。国を超え、時代を超え、なぜこれほどの人気が続くのか。1800年代の、旧い文化と習俗が背景にある小説にもかかわらず、だ。

 『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテは、チャールズ・ディケンズの小説に出てくるような、辛く数奇な人生を送った。しかしその生き方は楽天的で不屈である。彼女と同じように、小説の主人公は苦難に遭い、社会に反抗し、曲がりくねった道をひたむきに切り開く。

 ここには、親を亡くして孤児になったやるせなさと、孤児であるからこそ切り開いていける世界があることが示されている。それがある種の明るさを与えているようにも思える。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 寺山修司がこう歌ったように、だれもが昔から、たびたび孤児であったのかも知れない。アメリカでや世界の至る所で、国に背かれた孤児が増えてきたように思える。祖国の孤児であることはやるせないが、しかしまた、孤児であるからこそ切り開ける世界があるのかも知れない。

2020/12/13 NozomN