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ヨロコビの社内誌 5 編集者の条件

物書きではないけれど、物を書くことが多くなってから、感銘を受けた3人の編集者に恵まれた。ぼくも編集者をやっていたので、ああこんな風にやれば良かったんだなあと、自分を振り返って悔やんだりした。

平田未緒さんはアイデムの人事や教育担当者向け専門誌の編集者だった。専務の木村進さんに事務所に連れてこられたときは新米だったが、次には原稿を頼みに一人で現れた。少しおずおずしながら、依頼内容を話し出した。大きな紙にまとめてあったそれは、依頼書と言うよりは、たくさんのメモを寄せ集めたようなものだった。メモが丸で囲まれ、あっちこっちの丸囲みのメモが、矢印や=で結ばれていた。

こんな依頼書は見たことがなかったけれど、平田さんが言いたいことがとても良く伝わってきた。いくつかぼくが思うことを言うと、彼女は素早くメモに書き加えて、矢印や=を加えた。一時間も話していると、依頼書は平田さんとぼくの合作になっていた。

この依頼書を元に原稿を書くのはとてもやりやすかった。話し合ったことの全体が可視化されているし、細部に盛り込みたい項目が全部書かれている。なるほどなあ、こんなやり方があったのか。

だが、もっと印象に残ることがある。ゲラを送ってくれたとき、ゲラの余白に小さな字で、感想が細かく書いてあったのだ。ゲラというのは印刷する前に校正用に刷り出した用紙。ぼくは平田さんの字で一杯になったゲラを見るのが楽しみで、いつも待ちかねていた。原稿を書くことが幸せだった。

平田さんとはたくさんの仕事をしたけれど、現在でも書き直し、書き加えて版を重ねている原稿がある。このサイトの「快適・カチョー生活辞典」もそのひとつで、当時はウェブマガジンの連載だった。ネット上で校正ができるのにわざわざゲラを刷り出し、余白にたくさんの感想を書き込んでくれた。

就職内定者のための本を出してしばらくして、関亜希子さん(現在赤石澤亜希子さん)から原稿依頼がきた。マイナビの編集者で、新入社員に仕事に取り組むキビシさと面白さを教えて欲しいと言われた。電話では若い女性のようだった。初対面の気後れがあって事務所の山崎に同行してもらった。お目にかかったらやっぱり入社したての新人だった。

関さんはぼくの本を片手にして、喫茶店で待っていた。ぼくの本は小さな付箋でハリネズミのようになっていた。関さんは付箋を次々に繰りながら、内定者向けのこの部分を新入社員向けにこう変えて書いて欲しいと、矢継ぎ早に提案してきた。彼女は12回の連載のすべてを考えてきたようだった。

ぼくはかなりタジタジとなりながら、ようやく態勢を立て直し、自分の考えを述べてみた。すると彼女はぼくの話にときどき質問をはさみながら、すぐに「それはイイですね、そのセンで行きましょう」と言った。あれ?ハリネズミにした本を元に作ったプランは捨てても良いの?しかし彼女は、渾身の作業の結果の叩き台をあっさり捨てて涼しい顔をしていた。

関さんに初回の原稿を送ると、すぐに詳細な感想と書き加えの注文が送られてきた。そして連載名を「ビジネスパーソン計画」にしたいと言ってきた。注文の多さ、タイトルセンスの良さに驚いた。シリーズが終わったとき、これでは足りないはずだと、新たな連載注文が来た。「自分強化プロジェクト」というタイトルが付いていた。お、このタイトルならもう12回くらいは書けそうだぞ。なるほどなあ。

山崎眞理は事務所のヒトなのでこんな取り上げ方をするのはナンなのだが、ちょっとだけ。山崎はぼくが元勤めていた会社で庶務業務をやったあと営業に移り、トップセールスになったヒトだった。伝説的な営業パースンが多い会社の中で、さらに伝説的なヒトだった。ムリかも知れないと思いながら、元部下だったことを頼りに営業責任者としてスカウトした。

しかししばらくして事務所では編集が大忙しになり、「人材と採用の手帖」という自社メディアの編集を担当してもらうことになった。ぼくも原稿依頼を受けて書くことがあった。山崎はぼくの原稿を受け取ると、とても親身な感想をくれた。出張でホテル住まいが続いているときなどは、この感想メールをもらうのが楽しみだった。

山崎はその後、知り合いの会社に頼まれて三つの社内誌の編集に携わった。取材をするたびに、取材相手に取材の感想や励ましを送っていた。原稿をもらうたびに原稿の感想や励ましを送っていた。編集をするよりも感想や励ましのメールを書いて一生を終えるのではないかと、ぼくは心配したくらいだ。取材をした相手が会社を辞めたあとも、何くれとなく相談に乗っていた。

偶然かも知れないけれども、感銘を受けた編集者は女性ばかりだった。何に感銘したのかを思い起こしてみると、彼女たちは何よりも最良の読者だった。そして熱狂的なファンだった。問題がたくさんあるぼくの原稿を、熱狂的な読者ファンとして受入れ、一緒に直してくれた。日本語では海という字の中に母がいる。フランス語では母(mère)の字の中に海(mer)がある。そういうことだったのだろうか。

だが、依頼相手と同化した男性編集者をひとり知っている。「R誌」編集長の木原武一さんだ。ぼくはこの雑誌をやりたくてR社に入ったのだが、編集に携われたのは木原さんが会社を辞めてからだった。木原さんの最終号の特集は、『復讐するは我にあり』で直木賞作家となった佐木隆三さんのルポルタージュを柱にした「会社よさようなら」だった。佐木さんはまだ無名だった。

木原さんは10年先、20年先の大家をよく発掘していた。梅棹忠夫さんを中心とする文化人類学、民俗学、情報学にまたがる学者たちを、広く発掘し起用していた。梅棹さんの『情報産業論』はアルビン・トフラーの『第三の波』の下敷きになったと言われた。しかもトフラーの17年も前の出版だった。木原さんはまだ人の口に上らなかった「情報産業」が時代のキーワードになると見て、梅棹さんや周辺の学者たちに注目していたのだった。

木原さんのやり方は、初めから熱烈な読者になることだった。学者に原稿や座談の依頼をするときは、書籍だけでなく、雑誌、紀要に掲載されたすべての原稿に目を通していた。紀要とは大学や研究所が内々に発行する定期刊行物のこと。で、たとえば座談会の出席依頼をし終えると、木原さんの中では座談会の構成や細部が出来上がっていた。ぼくは行きつけの飲み屋で木原さんが、まだ開かれていない座談会の模様を楽しそうに語るのを何度も耳にしたことがある。

木原さんの著作『講義のあとで』全3巻は、日本の知の巨人たち30人へのインタビューをまとめたものだが、雑誌連載のときからそのインタビュー流儀が話題になっていた。木原さんはインタビューに入る前に、相手の生涯の業績のアウトラインと主要な細部について、小一時間ほどのプレゼンテーションをした。おそらく自分についてのプレゼンテーションを受けた経験は、どの学者にもなかっただろう。しかも自分の弟子よりも、自分自身よりも、自分に通暁していた。学者は木原さんの知のレベルを忖度せずに思い切って話ができたのだと思う。

木原さんはインタビュー原稿をまとめると、詳細な疑問一覧を作成して学者の元に送った。ふつうの校正はゲラに赤や直しを入れるのだが、木原さんの場合は疑問箇所にナンバーを振る方法でないと間に合わないのだ。疑問の根拠を詳しく書くからだ。しかもその根拠は相手の著作や発言を元にしたもので、出典明記がされている。

木原さんの著書群の中に『要約世界文学全集』『哲学からのメッセージ』などがある。内容は要約などではない。熱烈なファンとして読みこなしているから、筆致は淡々としているのにどの話もわくわくしながら読める。カントの『純粋理性批判』ですらスイスイと染みこんでくるのである。

木原武一さんの才能と努力に届くのはむつかしいかも知れない。けれども木原さん、平田さん、関さん、山崎に共通する流儀は、それほど特別な才能を必要とするものではない。相手をよくよく知る、相手の熱烈ファンになる、相手に反応する、このスタンスの持続だ。

お客さまとの取り引きにしか関心がなく、その他の諸々に話題が及ばないなら、それは営業に向いていないということだ。部下に寄り添うことがなく、声を掛けることが少なければ、それはマネジャーに向いていないということだ。お客さまの満足の隅々に関心がなく、お客さまとの見えざる対話がないなら、飲食店も衣料店も雑貨屋もやらない方がよい。まあ編集者も同じようなもので、良い仕事ができるかどうかは、ここが分岐点かなあ。

木原さんは著述業に専念するようになってから、ぼくにこう注意をしてくれた。「反応の悪い編集者と仕事をしてはダメだよ。仕事の全体が雑に終わる。最初は下手でもいいけど、いつまでも自分を教育できない編集者との仕事はダメだよ。仕事の品質が保てなくなる」

2021/3/14 NozomN

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