草稿ノート草稿ノート

アムトラック(幻想都市紀行10)

 ポートランドを初めて訪れたのは1985年(昭和60年)だった。ポートランドへはサンフランシスコからアムトラックで入った。

 オークランド駅を午後9時に出発。翌午後3時にポートランドに到着する列車だ。一番安いコーチクラスの座席で、リクライニングを倒して足置きを引き出してみると、足が届かないほどの長さであった。

 アムトラックに乗るとき、線路の上、列車ドアの前に置かれた箱が踏み台になっていた。踏み台の前に鉄道従業員らしい女性が立ち、一枚の紙を手渡してくれた。あとで読むと、アムトラックの廃線化に断固反対というビラだった。

 サンフランシスコ=ポートランド間は、飛行機で行けば1時間半余りで、列車では18時間かかる。チケット代も高い。当然のことながら日常の乗り物としては廃(すた)れ、そこで観光列車にシフトしたのだが、それだけの需要が喚起できないでいる様子だった。

アムトラック系統

▲ポートランドを基点にしたアムトラック系統

 アメリカは、ある意味では鉄道によって国力を作ってきた国だ。鉄道の多くは民間会社で、競って路線を開発した。全米をくまなく開発すると、今度は技術、価格、サービスで激烈な競争を繰り広げた。

 激烈な競争の歴史は、いくつもの見事な物語を後世に残した。古いアメリカ人の多くは、その物語の中で育ってきたと思う。ぼくが思い出すのは、アンドリュー・カーネギーのことだ。

 ベンジャミン・フランクリンの『フランクリン自伝』は、福沢諭吉も愛読したらしい。後年の『福翁自伝』はこれを模したと言われる。フランクリンの130年後に生きたカーネギーもまた、『カーネギー自伝』を著した。これはフランクリン自伝に似ていない。豊臣秀吉が『藤吉郞自伝』を書いたような無類の面白さなのだ。

『カーネギー自伝』表紙

▲いまも版を重ねる『カーネギー自伝』中公文庫BIBLIO。文化評論家で米議会図書館日本部長を務めた訳者の坂西志保さんも亡くなって半世紀になる。

 カーネギーは1835年にスコットランドで生まれ、12歳のときに両親とともにアメリカに移住した。このころのイギリスは、産業が大きく変わろうとしていた。

 その中心にあったのは、やはり蒸気機関の発明だった。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明したのは1769年で、これが改良されて実用度が高まったのは、1980年代に入ってからだ。

 蒸気機関が発想されたのは2千年前、紀元10年頃のことだという。湯を沸かして円盤型の入れ物に蒸気を導き、円盤につけたノズルから蒸気を噴出させて円盤を回転させた。古代アレクサンドリアの数学者ヘロンが考案したものだ。

 その後も蒸気機関は研究され続けたが、そのほとんどが現在のものとは原理がちがう。蒸気そのものの圧力を使うのではなく、蒸気が冷えて水に戻る(液化する)ときの、真空減圧による吸引力を利用するものだった。

 今から思えばこの発想がすごい。きっと蒸気の熱を上手に制御しきれず、逆転の発想を迫られたに違いない。その発想をまた逆転させて、元に戻したのがジェームズ・ワットだった。

 だから蒸気機関の発明には何人もが関わっていて、これをジェームズ・ワット一人の功績にするのにはムリがある。しかもワットの蒸気機関は、蒸気圧を高める改良によって実用化の道を歩むのだが、これについてワットは反対を唱えていた。

 それはともかく、ワット方式の蒸気機関の出現は、産業の形を様々に変えてしまった。その変化の全体を産業革命というのだが、同じような規模で産業を一変させる革命は、ぼくたちが体験するIT革命までは現れなかった。

 実用的な蒸気機関が発明されて何が変わったか。主要輸送手段が馬車から汽車に変わった。馬の需要が激減して、馬の生産者は転業を余儀なくされた。馬具の需要が減って、馬具商のエルメスは皮革装飾へと転進して成功したが、多くは没落を余儀なくされた。

 生産の現場が変わった。織機が開発され、織物産業が工業化され、織物産業は長くイギリス経済の柱となった。織物産業によるイギリス経済の酔夢を妨げたのは日本で、日本はイギリスに代わって繊維大国になるが、ぼくが社会に出たころ、その立場は危うくなっていた。

 織物の工業化は、手織り職人の仕事を根こそぎ奪ってしまった。仕事を奪われた職人たちは、職人から工場労働者へと「身を落とす」か、新天地を求めるしか活路を見いだせなかった。イギリス人を中心にしたヨーロッパ人たちのアメリカ大移動は、こうして始まった。

 カーネギーの父親もまた、手織り職人としての仕事を絶たれ、アメリカに移住した一人だった。彼が妻や息子のアンドリューを伴ってアメリカの地をふんだのは、ボクが生まれるちょうど100年前のことになる。産業革命の息吹が、自分と指呼の間にあったことに驚く。

 アメリカへ移住したカーネギーは、なじみ深い紡績工場で働きはじめた。その後転職を重ね、ピッツバーグ電信局で電報配達夫に雇われた。ここでカーネギーは電信技師にまでなっている。このとき16歳であった。

 この才能に眼をつけてカーネギーをリクルートしたのが、ペンシルベニア鉄道ピッツバーグ支店長のトーマス・スコットで、スコットが副社長に昇進すると同時に、カーネギーはピッツバーグの支店長になった。このとき18歳。

 ペンシルベニア鉄道の事業的な成功のひとつに、寝台車の導入がある。事業提案をしたのはカーネギーであった。アイデアは発明家のウードルフのものだったが、カーネギーはこの事業提案をするとともに、寝台車導入という新事業のために会社に出資をした。

 大きな借金をした出資は大成功し、カーネギーは事業家としての基盤を得る。ペンシルベニア鉄道を退職したあと、木製の鉄道橋を、耐久性があって安全な鉄製のものにする必要があると見て、キーストン鉄橋会社を設立した。

 このときの鉄は鋳鉄だったが、鋼鉄製造の技術が開発されたのを見て、鉄道のレールばかりでなく、建築物その他の需要が拡大するだろうと予測し、カーネギー製鉄会社を設立して鉄鋼王と呼ばれるに至った。

 カーネギー鉄鋼会社は、後に売却され、合併されてUSスチールとなる。で、その売却額は約5億ドルだった。100年も前のことだから、相当な額だったろう。あまり参考にならないが、日銀と総務省の消費者物価指数の推移を参考にすると、この100年間で物価は約150倍になっている。この数字を単純に当てはめると、カーネギーは今の金額で約1兆円を得たことになる。

 カーネギーはこの金を慈善活動に使った。スタンフォードがスタンフォード大学を創設して、有意の人材を世に送り出そうとしたように、事業家らしく努力する人たちへの支援に使おうと心がけ、カーネギー財団を設立した。

 アメリカの鉄道は、アメリカの産業の動脈となっただけでなく、アメリカ繁栄の夢のファンドともなった。その末裔のひとつであるアムトラックが廃線の憂き目に晒され、その証左をぼくは一枚のビラで受け取ったのだった。

ポートランド・ユニオンステーション

▲ポートランド・ユニオンステーション。歴史的建造物と言えるのではないか。駅ナカの古いカフェでは、ときどきライブをやっていた。

 真っ暗な西海岸を列車はゴトゴトと走りに走り、ポートランドのダウンタウンの端にある駅に辿り着いた。そこで体験した5日間のポートランドは、半世紀を経ていささかも変わらず、しかしまた大きな変貌も遂げている。

2021/4/17 NozomN

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