草稿ノート草稿ノート

春の覚悟

 4月4日の〈today &〉に、「風光る千万人と雖も吾往かむ」の句を付けた。『孟子』に出てくるフレーズで、その前にはつぎのコトバがある。声に出して読んでみると、なかなか気持ちが良い。

自反自不縮 雖褐寛博 吾不惴焉
自反而縮 雖千萬人吾往矣

 読み下しは、

自ら反(かえり)みて縮(なお)からずんば(正しくないと判断したら)、
褐寛博(かつかんぱく)と雖(いえど)も、吾(われ)惴(ゆ)かざらん(進まない)。

自ら反みて縮(なお)くんば(正しければ)、
千萬人と雖(いえど)も吾往(ゆ)かん。

 覚悟のコトバには、大見得を切ったようなところがあるから、イヨッと、声をかけたくなる。ローマ皇帝ネロの家庭教師だったセネカにも、なるほど!と納得させられるコトバが多い。

難しいからやろうとしないのではない。やろうとしないから、難しくなるのだ。

It is not because things are difficult that we do not dare; it is because we do not dare that they are difficult.

 言われてみればなるほどその通りだと、なぜか深く反省したくなる気持ちさえ沸いてくる。だがセネカは、ネロが母親を暗殺するのに手を貸し(いろいろな事情が重なってだが)、それを正当化するためにネロの母親の罪状を数え上げ、世間からそっぽを向かれた。

 ネロの為政は次第に歪んでいき、ネロを退位させる動きが盛んになったとき、セネカはこの陰謀に加担しているとしてネロから自死を命じられた。後年タキトゥスが『年代記』で、

ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない。

 と書いた師とは、まさしくセネカのことであった。セネカは覚悟のフレーズを各種残したが、覚悟も、その強さだけではダメで、「自ら反みて縮(なお)くんば」でなければ台無し、ということかも知れない。

 そうしたことを心に留めつつ、春、新年度、心身の力みに応える覚悟のコトバを紹介をしたい。

【月性】

人間到る処青山あり

 と言ったのは尊皇攘夷の熱血漢、月性という坊さんだった。そして覚悟の漢詩を詠んで歴史に名を留めた。「人間」は「じんかん」と読む。「世の中」の意味。

男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山

 昔は中学校の教科書に載っていたから、旧い人なら口ずさんだことがあるかも知れない。読み下しは、

男児(だんじ)志を立てて郷関を出づ
学、もし成るなくんば、また還らず
骨を埋(うず)む、何ぞ期せん墳墓(ふんぼ)の地
人間(じんかん)到る処(ところ)青山(せいざん)あり

 今の山口県に生まれた月性は、15歳のとき九州に遊学して仏教や漢詩文を学び、27歳のとき攘夷の海防論を引っさげて京に上った。そのときの覚悟を謳ったのが上の漢詩で、意味は、

男児が志をたてて郷里を出たからには、
学問を成就しない限り郷里には帰らない。
私の骨を埋めるのは、郷里の墓とは限らない。
人の世にはどこにでも骨を埋める所はある。

 昔は生地を捨てることは無頼になることだった。無頼とは無法者という意味だけではない。文字通り、頼るところのない人間のことだ。生地を捨てることは、孤立し、孤独になることだった。

 だから男子の覚悟が凝縮した明治維新前夜には、郷里に還らずとか、脱藩とかが声高に言われた。みな、痛切な覚悟を決めたのだった。

 このような痛切には漢詩の力強さが似合う。しかし漢詩作りの素養がなければ、代わりに「音読みの漢字」を使う手もある。

【高浜虚子】

春風や闘志抱きて丘に立つ

 これは高浜虚子が俳壇に復帰したときの句だ。本名が清なので俳号も「きよし」を「きょし」とした。それくらい肩に力が入らない人だから、

流れ行く大根の葉の早さかな
帚木(ははきぎ)に影といふものありにけり

 といった力の抜けた句を多く残した。帚木は「ほうきぎ」とも読み、茎を干して箒(ほうき)にする。箒にするくらいだからその茎の一つ一つはごく細い。そんな細い茎にも影があると詠んだだけの、脱力俳句なのである。

 その反対が正岡子規のもとで、虚子とともに二大高弟だった河東碧梧桐だった

赤い椿白い椿と落ちにけり
曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ

 虚子は碧梧桐の鮮やかで劇的な景の捉え方や、破調や非定型の飛躍を好まなかった。

 虚子と碧梧桐は伊予松山の中学時代からの友人で、一緒に住んだ下宿を「虚桐庵」と呼び仲良くした。しかしその仲が少しずつずれていく。虚子は子規が死ぬ7年前に後継者に指名されるが、これを拒んだ。

 その2年後、碧梧桐の婚約者だった女性と、碧梧桐の入院中に親密になり、結婚した。そして子規の没後、俳句の世界を離れる。

 しかし子規を継いだ碧梧桐が、新傾向俳句をいよいよ強めるのに対抗して、俳壇に復帰する覚悟を決める。そのときの句が、

春風や闘志抱きて丘に立つ

 脱力系の虚子が39歳になって、よほどの覚悟を決めたのである。だから「春風」は脱力気味に「はるかぜ」と読んではいけない。「しゅんぷう」と音読みにして、覚悟の力みを十分に伝えるのである。

【西行】

そらになる心は春の霞にて
世にあらじともおもひ立つかな

 これは北面の武士だった佐藤義清(のりきよ)が、西行として出家したときの覚悟の句である。なぜかやはり春だった。この句は多くの人々の心を捉え、さまざまな解釈を生んだ。

安田章生
 出家を決意した頃の心境をにじませている。空にただよいゆくかのごとくおちつかない心は、あたかも春の霞のようだと自ら思いつつ、そのとめどもなくただよう心のなかで俗生を離脱しようと願う。また、世を厭った人だという名だけでもこの世にとどめておいて、数ならぬ身の思い出にしようと、わが心に呼びかける。後者には、身ぶりのようなものが感じられないではないが、この身ぶりもまた、若い西行の心逸(はや)りのあらわれだといえよう。(『西行』)

白州正子
 いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが、誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見出せると思う。(『西行』)

高橋庄次
 (そら)は空・虚の字に当たる。「世にあらじ」と遁世を思い立つ心は、霞のように茫漠として焦点の定まらない心理状態で表現されている。それは佐藤一族の棟梁としての苦悩であり、荘園問題の重圧に疲れた虚脱状態だろう。(『西行の心月輪』)

 このとき西行は23歳だった。和歌だから当然だが、音読みがなく、すべて和語で詠まれている。

 それでも、いや、だからこそ、覚悟は底深く迫ってくる。

【蘇軾(そしょく)】

 トンポーロとはブタの角煮のことで、「東坡肉」と書く。北宋時代に地方に左遷された蘇軾(そしょく)は、左遷の地を東坡と名づけ、自らを東坡居士と名乗った。

 蘇軾はエリート官僚中のエリートだった。そしてまたこの時代最大の芸術家だった。後世に残る詩を作り、書の大家だった。彼は詩人白楽天を敬愛していた。白楽天も流刑された政治家だった。その白楽天が自分の農場を東坡と名づけていたので、蘇軾もあやかって左遷の地を東坡と呼んだのだった。

 彼はこの地で困窮し、下賤の食べ物であった豚肉ばかり食べた。ただ食べただけではない。豚肉料理の詩も作った。

黄州好猪肉
価賎等糞土
富者不肯喫
貧者不解煮
慢著火少著水
火候足時他自美
毎日起来打一盌
飽得自家君莫管

黄州の豚肉は良い。
だけど糞土程度の値段だ。
それで金持ちは振り向かず、
貧乏人は煮ることを知らない。
焦らず火にかけ水を少し加え、
火が通れば自ずと美味しくなる。
毎日一椀ずつ食べていると、
豚になった自分を食べているように満腹になるが、
そんなことは気にしなくていい。

 のんびりした詩だが、エリートの頂点を極め、国政を動かした身が、名の知れぬ地で極貧に喘いでいるのである。そんな境涯をものともしないぞという太い覚悟が、この詩からはズシンと伝わってくる。

 ちなみに冒頭の月性の詩の結びにある、

人間到る処青山あり

 の「青山」は「あおやま」ではない。それでは学院や洋服になってしまう。読みは「せいざん」、意味は「死に場所」、なのである。

 なぜ青山が死に場所なのかと言えば、蘇軾が左遷される前に投獄されていたとき、『授獄卒梁成以遺子由』と題する詩で、

青山に骨を埋むべし

 と謳ったからだ。この青山は「青山一髪」のように、青い空と山が一体となった景にある山一般だった。そんなどこにでもある山に骨を埋めよう、そう蘇軾が覚悟を謳ったことから、青山は死に場所のことになった。

 日本人は昔から、蘇軾の太い覚悟が大好きで、それが月性の詩を経て、長く人口に膾炙(かいしゃ=広く知れ渡ること)したのであった。

2021/4/10 NozomN

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