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58 遊ぶ

安きに流れるブカ

 まじめにシゴトをしない、どうも安きに流れてしまう、というブカをお持ちではなかろうか。遊びのことなら目を輝かせるが、シゴトとなると隅を求めて、こそこそと隠れてしまうというブカをである。もしそうならば、慶事である。貴兄姉がマネジメントを磨き上げる最終章に入ったとき、このようなブカは、バフの如き天の配剤だと思って間違いないからだ。バフとは、金属を見事に研磨するために、布などで作られた研磨輪のことである。日本の工業を支える金型は、バフ研磨の高技能なしには成り立たなかった。上質のマネジメントも、お遊びブカなしには成り立たないのである。

大辞林

 近年になって、遊ぶことは面目のないことのように言われてきた。その証拠に、辞書を引いてみるとよい。たとえば大辞林。遊ぶとは、仕事や勉強をしないで楽しく時を過ごしてしまうこと、だと示されている。楽しい時の過ごし方としては、かくれんぼ、酒、女、ギャンブルなどの遊戯、遊興が紹介され、職をもたずにぶらぶらするのも遊ぶと言い、そのものの機能や価値が十分活用されない状態も遊ぶこと、だとある。

難癖

 大辞林によれば、遊ぶとは、かように怪しからぬ行為なのである。仕事や勉強が正しく、かくれんぼ、酒色、ギャンブル、ぶらぶら、力を出し切っていない状態は悪なのである。この点について大辞林にちょいと難癖をつけるのだが、女遊びがあって男遊びがないのはどういうわけか。ギャンブルの隣に俳句や陶芸を持ってくることはできなかったのか。遊びを貶めようとの下心があって酒、女、ギャンブルの三点セットを持ち出したのではなかったか。

遊びをせんとやうまれけむ

 まそれはともかく、こんなことでは、我々の古いふるい先輩方が醸造した文化が、台無しになってしまうのではなかろうか。我々の古いふるい先輩方が、遊ぶことをおおどかに肯定してきたことは、平安時代の歌謡曲(当時は今様と言っていたからポピュラーという意味だ)にもよくあらわれている。

♪ 遊びをせんとや生れけむ、戯(たわぶ)れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ。舞え舞え蝸牛(まいまい=かたつむりのこと)、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。

梁塵秘抄

 ちなみに、こうした歌々を編集し、「梁塵秘抄」という歌謡大全を残したのは後白河法皇である。彼は若い頃から今様が大好きで、名人上手を集めては歌合戦をし、寝ても覚めても今様を歌い、あまり歌いすぎて喉を潰すこと三度というから、半端な入れ込みようではなかった。この歌謡本のタイトルにも、それがあらわれている。昔中国の漢の初め頃、魯の虞公という名歌手が声を張り上げて歌うと、梁(はり)の上に積もった塵(ちり)が動いた、という故事に由来する書名だというから凝っている。

後白河法皇

 では、後白河法皇は遊び三昧だけの人であったか、というとそうではない。彼は1158年から79年までの21年間、上皇、法王として院政を敷き、1181年から1198年までの17年間にも、法王として再登板している。なんと38年の長きにわたって、朝廷トップとして君臨したのである(その前に天皇も3年間やっている)。帝人を救い帝人を蝕んだカリスマ経営者大屋晋三だって、死ぬまで社長を続けて27年間だったから、38年の院政は記録的だ(大屋は社長就任後すぐに参議院議員に打って出て吉田内閣で閣僚を歴任し帝人の業績が悪化した9年後に呼び戻された)。

超多忙男の遊び

 しかし、後白河法皇のすごさは、院政の長さだけではない。吉川弘文館の日本史年表を見れば、後白河法皇の在任期間は、平氏の盛衰に一致していることがわかる。この間、五人の天皇が代わった。息子の高倉天皇と、平清盛の次女の徳子(建礼門院)との間にできた安徳天皇も、その一人だ。自分の孫であり、敵の孫でもある安徳天皇は、たった八歳で壇ノ浦に入水して崩御した。平氏を支援しながら、後に平氏を倒そうとして清盛に幽閉され、源氏に組して義経を愛でながら、義経追捕を命令した。壇ノ浦で助かった建礼門院を、後白河法皇が寂光院に見舞う大原御幸で平家物語は終わるが、権謀術数の限りを尽くし、情を尽くし、歌謡三昧を尽くして、とてつもなく忙しい法王だったのである。その歌謡三昧は「仕事や勉強をしないで楽しく時を過ごしてしまうこと」だったのか。そうではあるまい。院政の要領と呼吸、すなわち院政マネジメントに磨きをかける助けをなしたのが、今様という遊びだったのである。