書斎から NozomN の書斎から

尻ぬけホタル

 学問は尻からぬけるほたるかな

 蕪村のこの句が好きだ。好きな人はたくさんいるらしい。ブログでの引用も多い。年賀状に書いてきた人もいる。中には「蕪村の名句だ」と断言する人もいる。下の俳画もお馴染みだろう。

蕪村の俳画

▲サントリー美術館「蕪村と若冲」展のパンフレットから。

 元NHKのアナウンサーが首相インタビューで、感染対策は失策だったのではないか、と問いただしていた。そういう論調が新聞にもテレビにも世論調査にもあふれ出ていたから、たしかに失策だったのかも知れない。アナウンサーは「失策でした」という返答を引き出したがっていた。

 一方の首相は、「これは初めてのことですから、手探りで進めなければいけなかったことで」と、やや押し込まれ気味に応えていた。でぼくは、「学問は尻からぬけるほたるかな」を思い浮かべたのだった。

 多くの人が、失敗とか、失敗かも知れないことに、キビシくなっている。失敗した方も、それを認めると苦しい立場になるので、なかなか失敗を認めない。失敗を追求する方もされる方も、どちらも失敗に対して不寛容なのである。

 人生のあれこれを成功と失敗に分けたら、どちらが多いのだろう。野球で打率3割台は優秀だが、ヒットしなかった7割は失敗なのだろうか。期末テストで60点はどちらだろう。いろいろな分かれ道は、成功と失敗の分かれ道だったのだろうか。ひとつの成功の中に、失敗がいくつも詰まっていることはないか。たくさんの成功が、大きな失敗の下地になっていたことはないか。

 成功も失敗も、あるプロセスやキャリアの、小さな一点だ。小さな点を重ねて出来た線も、短い一線だろう。そう考えて、失敗のひとつひとつに対して、咎めることを少なくできないだろうか。咎める声を小さくできないだろうか。

 上の俳画に「書窗惰眠」の文字がある。窗は窓のことで、学問をする書斎の窓から惰眠を貪る姿が丸見えになっているという意味だ(と思う)。ほたるの光や窓の雪で本を読んだという勉強家だって、思わず居眠りをしたり、サボることはあるだろう。人はだれも、勤勉であり、怠惰である。清くあり、汚れている。成功し、失敗する。

 蕪村の感性は飛び抜けていたけれど、猛烈な努力家でもあった。その彼が、自分を開け広げて、惰眠を貪る姿をさらし、学問に励んでも尻からぬけてゆくよと自身をからかっている。だから、とてもとても人さまのことなど言えないとも。

 蕪村には熱烈ファンが多い。正岡子規は蕪村に触れて熱烈ファンになり、蕪村が忘れられ過ぎてきたと大騒ぎした。高橋治は『蕪村春秋』で百十二句を取り上げ、息づかいが聞こえてきそうな勢いの解説を、一句一句に加えた。

 だがこの二人も含めて、蕪村名句選を試みた句人たちはだれも、「学問は」の句を採っていない。確かにね、ほたるは季語だが、蛍雪の故事への結びつきが強い。ほたるが持つ季の味わいを、句全体に行き渡らせることをしていない。ある感慨を、滑稽味を効かせて句にしたに過ぎなかったのかも知れない。

 それでも、ぼくはこの句が好きだ。自分のダメさ加減をそのまま受け止めて、まあ仕方がないよねえと、そんな風に流して、何構わない気分になれるのだ。人を裁きそうになる自分から解き放たれるのだ。

2021/1/27 NozomN

   

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